I Am Here, Now

私は「今」に在る。私は「今」に到達してから、一度もそこから動いたことがない。

私はこの世界が幻であることを思い出した。「今」に存在している「私」だけが本質であることを思い出した。

私はどこにも向かうことがない。なぜならこの世界は「今」という意識の集積であり、私はこの美しく広がる「今」という世界に在り続けているからだ。

私は「今」に在るだけですべてが満ちているということを思い出し、ただ在り続けている。そこには賞賛も嘲罵も存在しない。誰も上にはいないし、誰も下にあることもない。

この世界には「今」しか存在していない。私たちは「今」を創る。そして次の瞬間には、また新しい「今」を創る。途方もない量の振動が相互に作用して、この美しい世界をまるで本物であるかのように見せている。

この世界がどれだけリアルに観えていても、あなたの体験がどれだけ肉感的であっても、この世界が本物であるとは言えない。私たちの本質は意識そのものであり、それ以外のものは幻想なのだ。

私たちの意識だけが本物だ。私たちの意識、この世界を創り出す以前に存在するものこそが私たちの存在の根底をなすものだ。

私たち全員がこの世界をクリエイトしている。夢は一人で創ることができる。夢は一人で体験することができる。しかしこの世界は一人では創ることができない。このリアルさをもってこの世界を表現するには何十億もの意識の作用が必要だ。そして私たちは全員でその意識の向かう通りに世界を創り続けている。

私は「今」というかけがえのないモーメントを生き続ける。このモーメントは宇宙で初めて起きた出来事だ。宇宙とは毎瞬間創り上げられる奇跡であり、私たちは尽きることのない宇宙の創造性の中で永遠に生き続ける。

「今」という状態を言葉で定義することはできない。言葉は方向性を持つが、「今」には方向性が存在しないからだ。言葉とはその発生の段階から主体と客体を備えている。「今」は主体からも客体からも観ることができない。主体と客体が一体になった領域、言葉を超えたところに「今」は存在している。

「今」を知りたいのならば、言葉を捨てることだ。原因と結果を捨て、過去と未来を捨て、あらゆる思考を捨てることだ。あなたの心に浮かぶもの、これまでのあなたがまとってきた概念をすべて捨て去ったとき、あなたは「今」と一体となる。

私は「今」に在り続ける。そこから動くことはない。一度開いた花を蕾に返すことはできない。

私たちは心の奥底で感じている。いつか花が開くことを知っている。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。花はそれがいつか知ることはない。花がそれを決めるのではない。自然界が調和から調和へと移り変わっていく中で、水と大地と光と風と、そのあらゆる要素が重なり合って開花が起きる。

人類という存在が一輪の花だとしたら、その開花がいつになるのか、人類は知ることがない。人類が決めるのではない。そして私たちはいつも調和に向かっていく。必ずそれが起きることを私たちは知っているからだ。

「今」は常に私たちと共にある。いつでも、一瞬で私たちは「今」に到達することができる。「今」に在るかどうか、その選択は私たちに委ねられている。究極の自由を私たちは謳歌している。

私は「今」に在り続ける。それはゆらぐことのない光であり、永遠に消えることのない炎だ。

Neosho

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