ただ、生きなさい。それがあなたを開く。
古来から「悟り」はさまざまな形で語られ、伝えられてきた。しかし、悟りにまつわる表現の多くは誤りだ。
「悟りを得る」ことはできない。「悟りを開く」こともない。悟りとは開かれるものだ。
山に行けば花の蕾を見つけることができる。花は咲くものであり、その時が来れば自然に花は開いていく。「花を得る」ということはないし、「花を開く」こともない。
悟りも同じように人間に起きる。それは自然な現象だ。時が来れば悟りは開かれる。それが本来の姿だ。悟りが開かれることを「開悟」と呼ぶ。しかし、悟りが開かれたとしても、それを頭で理解して口で説明することはできない。
悟りには一瞥という体験がある。ほんの僅かな時間、あらゆることがクリアになってまるで悟りを開いたかのような状態になることだ。一瞥を体験すると、まるで自分が悟りを理解したかのような気分になる。しかし、それは誤解だ。悟りを理解することはできない。
どのような言葉を使っても悟りを表現することはできない。言葉で表現しようとする限り、どこまでいってもそれはただ言葉のパズルを解いているに過ぎない。どれほど理論立てて解説をしても、どんなに上手な比喩を用いても、それはより複雑なパズルを解いたということ、3000ピースが10000ピースになっただけのことだ。
大きな悟りや小さな悟りは存在しない。あるのは唯一つ、悟りを生きるということだけだ。
悟りを生きる者だけが悟りを語ることができる。その言葉は意味を超えてあなたのハートに活き活きと語りかける。生とはなにか、「今」を生きる在り方としての振動に包まれた言葉を通じて人は悟りを感じる。
悟りとはいつか到達する場所ではない。一度行ってまた帰ってこれる場所でもない。悟りとは在り方だ。
悟りとは起きるものである。それは誰にも止めることのできない奔流のようにその人を本質に運ぶ。
森に奥にひっそりとたたずむバラの木がある。太陽が照り、雨が降ると木は成長し、やがて蕾をつけ、いつかバラの花が咲くだろう。花が咲くのを誰が止めることができるだろうか。花とは時が来れば自ずと開くものなのだ。
花開く時、それは祝祭となる。それが起きた時に初めて、花が開くべくして開いたことを知る。
花開く時、至高の香りがその空気に漂う。その時初めて、花の香りを知ることになる。
花開く時、あらゆる理由が明らかになる。それまでの長い時間がすべて、たった一つの花のためにあったことを知る。
バラだけではない。あらゆる花が輝いている。カスミソウもハイビスカスも、共に美しくまた可憐だ。そこにはほとばしる生命力の究極の形態、エッセンスが現れている。
悟りはあるとき突然やってくる。そこに理由はない。花が咲くのに理由がないように、あなたが目覚めるのに理由はいらない。自由でありなさい。
ただ、生きなさい。生命そのもので在りなさい。
日々、目覚めていなさい。朝、目が覚めて目を開けたときの驚きと喜びを、日常のどんな瞬間にも味わうのだ。
この世界は驚きと喜びに満ちている。あなたはただそれを受け取ればいい。
今この瞬間にあるものを抱きしめなさい。あなたの居場所はここにある。
ただ、生きなさい。それがあなたのたった一つの道だ。
Neosho