ただ、生きるのだ。その一日があなたの人生の最後の一日であるかのように生きなさい。
それ以外にあなたがあなたという瞬間を見出す方法はない。生とはほとばしるエネルギーだ。その片鱗を掴むことさえできれば、あなたの生があなたのガイドとなる。
なにも理解する必要はない。誰にも理解される必要もない。
理解とは言葉の迷宮に陥った人類が作り出した巨大な幻想だ。理解できることなどこの世界にはなに一つないが、人はことあるごとになにかを理解したと思い込んでその出来事に蓋をする。しかし、理解することで体験はなおざりにされる。理解と体験は本質的に異なる。理解とは外から眺めること、体験とは一体になることだ。理解できたといったところでそれはただ単に解説したというだけのことだ。体験したから理解できるということもない。体験は体験だ。そこに理解という名のしっぽをくっつけたとしても、それはただの自己満足に過ぎない。体験こそがこの生の真の姿なのだ。
生きることとはなにかを理解することではない。生に解説はいらない。生とは体験だからだ。
今、ここにあるものを感じなさい。それだけがあなたにとっての真実の生であり体験だ。
生とは順序よく理解できるものではない。意識が現象を順序立てて言語化する方法を見つけたとき、時間が生まれた。その途方も無い遊びはまだ続いている。生とは流れるものであり、たゆたうものであり、うつろうものだ。生を特定の概念の中に閉じ込めようとしたとき、あなたは生の本質を犠牲にすることになる。生の本質を見失ってまで、なにをしたいというのか。
あなたはまだ明日を体験していないのに、どうやって明日のことを決めることができるのだろうか。宇宙はまだ明日を体験していない。その初めての体験を、その瞬間が来るまで待ってみてはどうだろうか。
生の本質に心を添わせなさい。あなたが完全に生に自らを委ねたとき、生は花開く。
こだわらないことにも、こだわることにも心を向けなくていい。ただ、今という世界の広がりをハートで体験することだ。そこに生がある。
問いを自らの外側に探すのをやめなさい。人生とは謎解きの旅ではない。生きることそのものがあなたの問いであり答えなのだ。
ハートの内側からあふれる想いに答えなさい。それがあなたの道しるべとなる。
あなたの外にあなたはいない。あなたの内を探してもあなたは見つからないだろう。あなたはもっと大きな広がりなのだ。言語も認知も超えた存在、上にもあり下にもある存在をどうやって探し出すというのだろうか。
ただ在ることができれば、あなたはあなた自身となる。そこには一切の境目が存在しない。あらゆる現象がたった一つの膜の中で混ざり合っている。それがあなただ。
なにかを見つけようとすれば見つけられないことを心配することになる。なにかを達成しようとすれば達成できないかもしれないと不安に思う。あなたの向かう先にフォーカスしないことだ。あなたの在り方だけがこの世界での現実となる。
在り方にフォーカスしなさい。生をありのままに体験する、その在り方を見つけなさい。純然な想いでそこにとどまるのだ。そして、柔らかくありなさい。生の流れが変幻自在であることを思い出しなさい。
生とは開いたばかりの花のようなものだ。握りしめればあっという間につぶれてしまうだろう。そっと、手のひらの上に乗せてそのたたずまいを味わってみなさい。そして、あなた自身も自らの手のひらの上にあるということを思い出しなさい。
あなたは現象ではない。あなたは一部ではない。あなたはこの世界、この宇宙の広がりそのものなのだ。
Neosho