暗闇は存在しませんでした

私にとって沖縄は訪れる度に毎回新しい世界を垣間見せてくれる素晴らしい土地です。五回目のK&Sコミュニケーション講座『多次元的知覚を開く』のために11月に沖縄を訪れたときもまた、私が観ようとしていなかった未知の世界について知ることができました。

K&Sコミュニケーション講座開催の二日後、友人であり今回の沖縄での講座開催のオーガナイザーでもある宮良志穂さんの案内で沖縄のとある洞窟に行きました。

沖縄の他の洞窟でもそうであるように、洞窟の入り口には祈りの場があり、そこで手を合わせ、洞窟に入ることの感謝をスピリットに伝えました。天気もほどよく心地よい気持ちで洞窟に入りました。

洞窟の奥まで進んで行くと、光は次第になくなっていき、最終的にはこれまでに体験したこともある、「暗闇」にいるような感覚になりました。皆、手に携帯のライトを持ってその灯りを頼りに奥まで歩いてきたのですが、奥についたのでライトを消してしばらく静寂と漆黒の中で過ごそうということになり、各々持っていたライトを消しました。

別の場所ですが以前に洞窟に入ったことがあったので、その体験を基にある種の期待が働き、真っ暗な世界に浸ることを想像していましたが、今回はそれとは全く違う、思わぬことが起こりました。

暗闇の中で目を開けているとその前には赤やオレンジの「なにか」があります。そして、それはゆっくりと動いていて、新しい別のなにかが出てきたり、重なったりしています。やがて青が出てきたり、黄色くなったり、とバリエーションが増えて明るさも変わっていきます。この動きながら色や形を変えているものを言葉で表現すると「色のついたもやのようなもの」位にしか言い表せないので、最初は、突然暗いところに行ったときの残像のような、目の錯覚のようなものに思えます。しかし、いつまでもこの「なにか」は目の前に存在し続け、動き続け、形を変え続け、色が変わり続けるのです。しかも、この「なにか」は目をつぶったとしてもはっきりと観えているのが分かります。ならばこの「なにか」は眼前の風景にちなんだものではなさそうですし、物体の反射として目の水晶体を通して見えているものではないという風に思いました。

『この暗闇は真っ暗ではない』

そんなことを頭の中で反芻すると、自分の頭がおかしくなったようにも思えました。そして、ある意味確かに「頭」が「おかしくなっている」なと思い直しました。口語的に「頭」と呼ぶときには、「頭部」という意味もありますが、「脳」を指すことも多いです。「頭がいい」などは、「脳の機能が高い」というような意味で使われますし、「頭を使え」という場合には、頭を振り回して道具として使うのではなく、「脳の機能をもっと使え」というような意味合いで使われます。私の「頭がおかしくなった」のは、まさに「脳がこれまでと違う状態になった」ということを端的に言い表していました。

「みる」という言葉にフォーカスすると、「みる」には、「見る」と「観る」の二つの漢字があります。私は「見る」とは、物体に当たった光が反射してその光を眼球の水晶体を通じて受け取り脳に映し出すことであり、もう一つの「観る」は、目を通すかどうかに関わらず脳が視覚的情報としてあるいはヴィジョンとして映像を映し出すことだと考えています。つまり、私は人間が眼球を通じて受け取った光の粒子だけを認識して「見る」ことと、ある情報を別の器官(物理的であるないに関わらず)を通じて受け取ってそれをVISUALIZEして「観る」という二つの「みえ方」が人間にはあって、多くの場合はこの二つを同時に行っているように思えるのです。

私たちの感覚は単なる光の反射よりも遙かに多くの情報を受け取っています。私たちが瞬間瞬間に存在する場に現れているなにかしらの情報を目に見えるものよりも抽象的な表現として受け取ったとき、それを、「目の錯覚」と呼ぶことも「気の迷い」と呼ぶこともできるので、ひょっとしたら体験的に重要視されない場合にはそのまま必要のない情報として脳内で処理されてしまうことがあるのかもしれません。しかし、おそらく私たちはいつもそのような情報を基にいろいろな判断を下し、時にその情報を絵に描いて表現したり、音として表現したりしています。その情報を受け取っているのは、脳の中でも松果体であると言われることが多いのですが、私は情報をやりとりしているのは私たちの意識が一瞬一瞬つくりつづけている膜であり、その肉体的な反応が脳内に出現しているのではないかと考えています。

いずれにしてもひっきりなしにやってくる情報をプロセスする器官が脳内には存在しているのでしょう。脳は光やそれ以外の情報を受け取って脳的に解釈して私たちが認識できる形式に変化させて観せてくれます。そしてその情報は脳にとっては「体験されたもの」として私たちの意識において「リアルなもの」として認識されるのです。

たとえば、私たちは夢を観ますが、その世界は私たちが実際に肉体をもって体験していなくてもそのリアリティを感じます。これは脳がなんらかの情報を「リアルな雰囲気に変化させて」私たちに体験させてくれるからです。

私たちが「暗闇」にいると思うとき、脳は暗闇では光がないのでなにも「見えない」という前提にしたがって機能します。つまり、仮に見えていたとしてもその情報を消去することまでして概念と実体験の整合性を実現するのです。

今回、沖縄の洞窟の中で私は一瞬も暗闇を体験することができませんでした。脳にとっての暗闇は存在しなかったことに気づいた瞬間に、「暗闇はただ真っ暗なものでありなにも見えない」という概念がなくなったのでこれまで脳内にやってきてはかき消されていたいろいろな情報が出現するようになったのです。

だからといってなにかの神的存在とかエネルギーとかいう特別なものがでてきたわけではありません。ただ、情報としてその場に存在するバイブレーションが脳内で認知されうる形として視覚的に表された、ということなのだと思います。もちろん、意識的にその表現を解釈することはできると思いますが、そのときにはただひたすらそのような表現を受け取ることに徹していました。

ということでその洞窟で暗闇に浸った30分の間、私は暗闇を体験せずに、目の前に繰り広げられる光と動きの世界に入り込んでいました。おもしろいもので、一度暗闇がないという体験をしてしまうと、今度は逆にどう頑張っても真っ暗闇を体験することができなくなってしまうのでした。目の前には常に何かがあるし、仮に目をつぶったとしてもそのなにかはあり続けるのです。その色は始めは弱々しいものでしたが、時間が経つにつれてより強い、明るい色になっていきました。

私は純粋に、綺麗だなと思いながらその「なにか」を見つめていました。そしてその色の変化を眺めているうちに不思議に思うことがありました。色が様々に展開しているときは、色の種類がよくわかるのですが、色が一色になると、これが何色なのかよく分からなくなるのです。目の前に赤と紫とオレンジのなにかがあってゆっくり動いているときには、三色がはっきりと認識できるのですが、色が移り変わってどれも赤っぽくなってくると、その色が赤なのかオレンジなのか、それとも全く違った色なのかがよく分からなくなってくるのです。

つまり、色の認識というのは、比較して初めて認識できるもので、比較する対象がないと認識することが難しいということになります。「固有色」という言葉がありますが、ある色を私たちのそれぞれの脳がばらばらに「認知」することを前提としてこの「固有色」について考えると、この概念すらあやしいということになってしまいます。

「認知」とは、私たちの意識が情報に対するある一定の反応を示すことで成立します。つまり、色を認識して、「ここに色がある」と感じた段階でそれを「認知」とするならば、光の反射のある特定の範囲を固有色と呼んだしてもその色を脳が認識できているかは分からないのです。

たとえばグリーンモニターのように一面黒とグリーンの世界があったとして、その世界にのみ生きていたら、それ以外の色を知らないとしたら、この世界での黒以外の色がグリーンであるかどうかを確かめることができないし、オレンジ色を想像することもできないでしょう。

もし、太陽光をプリズムで分光してそのスペクトルに基づいてここからここまでの周波数をグリーン、ここからここまでを黄色、と定めたとしても、私たちがある範囲での光の周波数を認知する時には既にそのスペクトル以外の情報が含まれるので、固有色は理論上は存在しますが現実的には統一することができない色になってしまいます。

最も端的な例は「ドレス論争」や「スニーカー論争」で有名になった、人によって違った色に見えるドレスやスニーカーの写真でしょう。このような写真に示されているVANSのスニーカーがグレーとミントに見えた人にとって、固有色はピンクだと言われても、そのこと自体が意味をなさないものになってしまうかもしれません。

人間にとって色とは、比較対象によって生じる現象の一つです。人に意識があることで光を見分けるという意図が生じ、結果として二つの色を別の色として認識するという現象を生じさせています。ということは、意識がなければ色は存在しないということになります。色が存在しなくても、意識があるということは光が存在しています。そして、いくら水晶体がさまざまな周波数の光を受け取っても、それを脳が一色だと思えば一色であるということになりますし、光が「ない」とされている暗闇でも脳が光を脳内で生じさせている限り、光は「ある」ということになります。

このことは、人間に意識があるということが光を生じさせているということを表しています。

意識がある状態で人はさまざまな情報を受け取って解釈しています。そこには五感を超えたものも含まれています。五感を超えたものというとなにか不可思議なもののように聞こえるかもしれませんが、人間の科学はまだ五感以外のものを十分に検知できるようになっていないというだけで、五感を超えたものはたくさん存在しているし人はみなそのような感性を使って日々暮らしています。

人間は意識がある限り光から離れることができません。理論的な暗闇は存在しますが人間にとっての暗闇は存在しないのです。

このことは私たちが光というものを段階的にグラデーションでとらえているということを表しています。固有色ではなく、相対色の世界に私たちは住んでいます。相対的であるからこそ、私たちは自分を自分と呼ぶことができるし、きらいな色があったらその反対に進むことができるのです。

意識がある限りそこには光がある。このことは人間が光であるということの証でもあるのかもしれない、とそんな風に思いました。

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